2006年06月05日(月)
日本上陸
日本に出張。今回は一年ぶりの一家総出での帰省を兼ね、笑ってお仕事+休暇の三週間のロングラン・トリップだ。
飛行機の中では、「子供に風邪薬を飲ませて眠らせる作戦」を敢行。飲むと眠くなる系の子供向け風邪薬を飲んでもらい、飛行機内で寝てもらおうという寸法だ。どちらかというと作戦失敗。子供を抱きかかえてダラダラと機内を彷徨う羽目になった。
日本についてからは、子連れに対する殺伐とした雰囲気に、日本に来たな、という感覚にさせられる。なんというか、風当たりが厳しい。子供をつれてまごまご、てろてろしていると、無言の圧力を感じることが多い。
日本の出生率が1.25前後という報道もあったが、日本での子育ては米国での体験に比べると1.25倍以上困難であるという印象がある。あまり日米比較をして優劣を語るのは好きではないが、こと子育て(と病院のシステム)に関しては、米国のシステムのほうが楽で楽で仕様がない。(医療に関しては保険の問題など一筋縄ではいかないのだが、またいつか別の話)
簡単な例では、子供ににこやかに話しかけるオジサンの図だ。日本では、ともすれば「気色悪いおじさん」扱いで、話しかけられてもお母さん困ってしまう。アメリカでは逆に子供を邪険に扱う大人は「ナニそれ」的な感覚がある。
やや飛躍するが、その背景には子供と大人のポジショニングの違いがあるのではないかという気がする。
日本では、子供から大人につながるステップはなだらかで、ハッキリとした境界がない。
子供がある程度大人びていても許容されるし、大人が子供っぽい面を持っていても許容される。
日本文化が子供に寛容な面(端的な例で言えば飲酒など)は、法令では禁止されているが家庭内ではある程度許容範囲であることが多いだろう。一定の大人の権利が子供にも認められる一方で一定の自律が子供にも期待される。ある程度、自分のことは自分で面倒見ろよ、という自己責任の論理が子供にも適用される。
転じて米国の文化では、高校を卒業するまでの子供と大人との間には非常に高い壁がある。こどもは権利が制限される一方で、社会の大人たちから庇護され、緩やかに監視される対象だ。良識ある大人に対しては、子供には庇護者として接し、必要があれば子供を保護することが期待される。
こういう言い方をすると印象がよくないかと思うが、日本文化でいう犬や猫をかわいがる感覚と、多少通じる面があるかもしれない。小さくて守ってあげなくてはいけない存在、という意識だろうか。
多分に幻想じみている、又はハリウッド的なマッチョかもしれないが、自分の子供が崖から落ちそうになったとき、アメリカ人の大人がそばに入れば、100人中85人は、自分の身を犠牲にして助けてくれるだろう、という安心感がある。日本社会では、うーん、100人中30人位か、という感覚だ。
「何故少女売春がいけないのか、大人がしているのに何故いけないのか?」と子供に聞かれた時に、日本のコンテクストでは「ご両親が悲しむのだ」、「自分を大事にしなさい」といった禅問答的な説教になりがちだ。北米のコンテクストで言えば「子供にそうする権利はない」で問答無用ですむ。
個人的には後者のシンプルなシステムのほうが良い気がする。前者の問答では、他者との関係性(一過性とはいえ)他者とのつながりを補う行為としてのそれを論理上否定できない。
「極東BLOG」では、「愛国心」と流行の言葉で表現しているが、社会のなかで子供を守るための意識、と翻訳すれば同意できる。米国文化においては、社会の中での弱者として子供を祝福、歓迎し、守り育てるという意識が強く、それが子供を生み育てるポジティブな要素のひとつになっているという気がする。
ただし、逆説としては、米国社会での子供の虐待、犯罪が深刻なことから、社会的、文化的に子供を保護するシステムが必要であるのも確かだ。
日本国内でも子供への虐待、犯罪が(感覚的には)増加している印象がある。こうした現実を受けて、やがては日本でも子供をしっかり保護、監視する文化が育まれていくような気がする。それまでは日本での子育ては様子見かな~。
と、時差ぼけで朝早くにおきてしまってから考えてみる。
飛行機の中では、「子供に風邪薬を飲ませて眠らせる作戦」を敢行。飲むと眠くなる系の子供向け風邪薬を飲んでもらい、飛行機内で寝てもらおうという寸法だ。どちらかというと作戦失敗。子供を抱きかかえてダラダラと機内を彷徨う羽目になった。
日本についてからは、子連れに対する殺伐とした雰囲気に、日本に来たな、という感覚にさせられる。なんというか、風当たりが厳しい。子供をつれてまごまご、てろてろしていると、無言の圧力を感じることが多い。
日本の出生率が1.25前後という報道もあったが、日本での子育ては米国での体験に比べると1.25倍以上困難であるという印象がある。あまり日米比較をして優劣を語るのは好きではないが、こと子育て(と病院のシステム)に関しては、米国のシステムのほうが楽で楽で仕様がない。(医療に関しては保険の問題など一筋縄ではいかないのだが、またいつか別の話)
簡単な例では、子供ににこやかに話しかけるオジサンの図だ。日本では、ともすれば「気色悪いおじさん」扱いで、話しかけられてもお母さん困ってしまう。アメリカでは逆に子供を邪険に扱う大人は「ナニそれ」的な感覚がある。
やや飛躍するが、その背景には子供と大人のポジショニングの違いがあるのではないかという気がする。
日本では、子供から大人につながるステップはなだらかで、ハッキリとした境界がない。
子供がある程度大人びていても許容されるし、大人が子供っぽい面を持っていても許容される。
日本文化が子供に寛容な面(端的な例で言えば飲酒など)は、法令では禁止されているが家庭内ではある程度許容範囲であることが多いだろう。一定の大人の権利が子供にも認められる一方で一定の自律が子供にも期待される。ある程度、自分のことは自分で面倒見ろよ、という自己責任の論理が子供にも適用される。
転じて米国の文化では、高校を卒業するまでの子供と大人との間には非常に高い壁がある。こどもは権利が制限される一方で、社会の大人たちから庇護され、緩やかに監視される対象だ。良識ある大人に対しては、子供には庇護者として接し、必要があれば子供を保護することが期待される。
こういう言い方をすると印象がよくないかと思うが、日本文化でいう犬や猫をかわいがる感覚と、多少通じる面があるかもしれない。小さくて守ってあげなくてはいけない存在、という意識だろうか。
多分に幻想じみている、又はハリウッド的なマッチョかもしれないが、自分の子供が崖から落ちそうになったとき、アメリカ人の大人がそばに入れば、100人中85人は、自分の身を犠牲にして助けてくれるだろう、という安心感がある。日本社会では、うーん、100人中30人位か、という感覚だ。
「何故少女売春がいけないのか、大人がしているのに何故いけないのか?」と子供に聞かれた時に、日本のコンテクストでは「ご両親が悲しむのだ」、「自分を大事にしなさい」といった禅問答的な説教になりがちだ。北米のコンテクストで言えば「子供にそうする権利はない」で問答無用ですむ。
個人的には後者のシンプルなシステムのほうが良い気がする。前者の問答では、他者との関係性(一過性とはいえ)他者とのつながりを補う行為としてのそれを論理上否定できない。
「極東BLOG」では、「愛国心」と流行の言葉で表現しているが、社会のなかで子供を守るための意識、と翻訳すれば同意できる。米国文化においては、社会の中での弱者として子供を祝福、歓迎し、守り育てるという意識が強く、それが子供を生み育てるポジティブな要素のひとつになっているという気がする。
ただし、逆説としては、米国社会での子供の虐待、犯罪が深刻なことから、社会的、文化的に子供を保護するシステムが必要であるのも確かだ。
日本国内でも子供への虐待、犯罪が(感覚的には)増加している印象がある。こうした現実を受けて、やがては日本でも子供をしっかり保護、監視する文化が育まれていくような気がする。それまでは日本での子育ては様子見かな~。
と、時差ぼけで朝早くにおきてしまってから考えてみる。

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この北米コンテキストには共感できる。そしてこの問題は人権の捕らえ方に端を発していると思う。
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