2007年02月
スターバックスより美味しいと全米が泣いたらしいマクドナルドの”スタバキラー”珈琲にトライ。
確かに少し前の泥水のような代物に比べると格段に美味しく、マイルドになっている。銀行やホテルのロビーにおいてある無料コーヒーよりも断然美味しい。スタバと比べてどうか、という点は好みで分かれると思うが、要するに比較の対象にはなると思う。
自宅近くはサンフランシスコ国際空港とサンノゼ空港の飛行コースになっているらしく、飛行機が矢鱈に上空を通過する。昼間は数分おき、夜間は飛ばないと言う建前だが、深夜2頃でも時折飛んでいる。まぁ煩いといえば煩いのだが、だんだん慣れてきた。
着陸前の飛行機というのは、何度見ても飽きることがない。そのフォルムはなんとなく産卵前の鮭を連想させる。
当たり前なのかもしれないが、カルフォルニアの植生は北国とは大分違う。特に巨大蘇鉄を見ると、遥かな昔から変わらぬ姿を維持し続けてきたその姿勢に畏敬の念を覚える。種の記憶というものが存在するのであれば、ぜひとも人類誕生以前のことを聞いてみたい。
といった平和な日々をすごす。
コメント(1) | トラックバック(0) | お猿なひととき
On Off and Beyond「技術系「以外」のシリコンバレー就職術」について、そっとコメントしておきたい。
自分の場合はエンジニア&多くの人にお世話になったこともあり、それほど苦労は無かったかとおもう(もしくは辛いことは忘れた)。
職についたルートとしては
その1)米企業の日本支社から米本社に転籍
その2)日系企業の米支社に赴任
の二通りのパターンで今に至る。
これから渡米ライフへのストラテジーを立てるという方に御忠信したい点は、
コース1(社内転籍パターン)とコース2(海外赴任パターン)では、総合的な体験が全く違うものになる、ということだ。どちらが好ましいかというのは、人それぞれなので、なんとも言えない。が、大分質が違うといって良いかとおもう。
自分としてのお勧めは転籍パターンだ。外資系支社とその本社、それぞれの立場・文化での、喜びも悲しみも幾歳月を味わうことができ、見所が多い。これは一粒で二度おいしい。(どこがどう楽しくて、どう辛いかというのはまた別の機会に)
海外赴任パターンの場合は同じ文化に所属したままで、(住む場所は違えども)どうしても日本の会社の延長線上といった感覚が強い。また海外支社ではExpatというワリとお大臣な立場、至れり尽くせりで少なくとも生活にはあまり苦労が無い。リスクを求める向きにはやや足りないかもしれない(この辺は企業文化次第なので異論はあるかもしれない)。
「米国に留学してそのまま就職する」というパターンについては、これまた語弊があるかと思うが、その際に日本企業の米支社に就職というのは
ややリスキーかもしれない。
というのも、アメリカ社会攻略と(日本本社から見た)海外支社を生き抜くという「二正面作戦」で挑むことになるからだ。(器用な方なら問題ないだろう)
また、理由は不明だが、一部の日本企業では"現地採用"組な日本人スタッフと"本社派遣"組スタッフの間に死闘が繰り広げられていることもあるようなので注意だ。
その他にもVISAのスポンサーの要素もある。特に最近はエンジニア向けのH1-B Statusは近年発行枠の制限が厳しいようだ。現状では実質的には社内転勤用(Lステータス)か投資家(Eステータス)の選択肢しかないように見受けられる。意外と世知辛い世の中だ。
VISAに関しては状況次第でコロコロ変わるので各種サイトをご参照されたい。また、弁護士次第でなんとかなる(こともある)らしいので、VISAの条件に当てはまらないということで悲観することもない。
なお、自分としてはアメリカ至上~、ということでも無いので「日本国外に出てまー、よいこともあれば、悪いこともある」ということも念のため記しておきたい。ということで、上記は、あくまで「話のタネにちょっとアメリカにでも行ってみたい方」への御忠信だ。アメリカ行きへの勧誘ではないのであしからず。
コメント(1) | トラックバック(4) | お猿なひととき
「エンダーのゲーム」をはじめSF的名作が多い著者の作品。ハードSF者しては見逃せず手に取ったが、できれば読まずに過ごせたほうが良かったと思えるような衝撃的な結末であった。
終盤手前までは、「ホントーにあった怖い話(北米編)」といった趣きの、白人中産階級(やや下目)の生活感あふれるエピソードが続く。
職場のボスとの軋轢、信頼しきれない同僚、クレジットの返済、健康保険、学校のいやな先生、地域コミュニティへの参加と摩擦、家屋のトラブル、警官とのやりとり、スーパーでの買い物等など、、日常生活の中で良くある、ちょっとした手間のかかる事柄が次々と起こる。この、"一時が万事スムースにいかなさ感"が胸に沁みる。
そして唐突に、これ以上ない絶望的な幕引きで物語は終わる。
アドルノという方は「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」といったらしい。なんでも、文化は人間の野蛮性解消にちっとも役立っていない、どころか増長させている。むしろ文明は野蛮だ。ということのようだ。
別著「エンダーのゲーム」シリーズでも語られるが、O.S.カードはそうした人間の野蛮性を強く意識している。その野蛮的なものは、決して個人の資質ではなく、種全体の持つ不可抗力としての野蛮性であったり、集団の価値観の違いからくる、すれ違い的なものとして描かれている。(この点、あくまで個人に主点が置かれるル・グイン@ゲド戦記と趣が違って面白い)
その野蛮性の結果、ありえてはならないほど絶望的なことが引き起こされたとき、人は立ち直れるのか、ということがテーマのひとつといえるだろう。「消えた少年たち」でもあってはならない絶望が描かれるわけだが、そこから彼らが立ち直っていくのかどうかは、結局示唆されない。
本書の結末を通じて読者にも仮の絶望体験が提供される。個人的には、カタルシスというには程遠いこの後味の悪さは、できれば知らずに済ませたかった。最後の数章は読まないほうが良かった、と思ってしまう。いや、結末抜きでも十分に面白い。
現実においても、こうした事柄は人一人が生きている時間では、背負いきれない類のことなのでは、とも思う今日この頃だ。






